第51回日本史講座のまとめ③ (明治14年の政変)
1 明治14年の政変と自由党の結成
1) 明治14年の政変
1878年、大久保利通の死後、政府は大隈重信や伊藤博文らによって運営された。この頃、国会開設要求や財政逼迫など政府は大きな課題をかかえていたが、憲法や国会をめぐる検討は自由民権運動への対策として最も重要な問題であった。
政府内部でも大隈がイギリス流の議院内閣制を取り入れて、直ちに国会を開設すべきであるという意見書を1881年に上奏したが、君主権の強いドイツ流をめざす伊藤博文はこれに強く反発した。その頃、開拓史黒田清隆は、設置以来1400万円を投じた事業を39万円の無利息30年賦という破格の安値で、同じ薩摩出身の政商五代友厚らに払い下げようとする、いわゆる開拓使官有物払い下げ事件が新聞で暴露されたため、民権派の政府攻撃を一層高めることとなった。そこで政府はドイツ流の君主権の強大な憲法を作る方針を固め、1881(明治14)年に大隈を罷免するとともに、1890年に国会を開設するという国会開設の勅諭を公表して、この危機をのりきったが、これを明治14年の政変と呼ぶ。
2) 政党の成立
1881年に国会開設が決まると、政党の結成を準備していた国会期成同盟では、同年、板垣を総理とする自由党を結成した。翌年には、下野した大隈を総理とする立憲改進党が成立した。これらに対抗して政府も同年、福地源一郎を党首とする立憲帝政党をつくらせた。また、地方にもそれぞれの系統をひく民権派の政党が次々とつくられていった。